ディストピア…?
さっき友人に言われた「ディストピア文学」というものが頭に残って離れなくなっています。
そもそもディストピアってなんだったっけってとこからなんですよ。
wikiによると「ユートピア(理想郷)の正反対の社会である」とは書いてあるものの詳しく読んでも頭が???になっていくばかり…
理解できる範囲で考えると
ディストピア自体1890年代の造語なんですね。初めて知りました。
で、ユートピアの正反対のように書かれだしたのは1950年代から。わからない。
わたしは哲学者でも小説家でも何でもないからこう横文字でうんたらかんたら書かれてもわかる気がしない。日本語で書けや。
…どうやらディストピアを知るにはユートピアから勉強をしなければならないらしい。
イングランドの法律家、思想家トマス・モアが「ユートピア」という作品をイギリスで発表したのがユートピアの始まりらしい。それは1516年だと書いてある。
「ユートピアという言葉は、モアがギリシャ語から作った造語で「どこにもない国」を意味している。」(ユートピアとディストピア より引用。)
どうやらトマス・モアが自分の好きなようにできる国を想像して書かれているらしい。
ただの妄想と自己満足じゃん。
でもそれが大事らしい。
「ユートピア文学は作者の想像力を最大限発揮できる自由奔放な文学という一面も合わせ持っていた。」(ユートピアとディストピア より引用。)
妄想が大事なんだそうだ。わからん。文学者の脳みそを解体してみたいくらいだ。
で、どうしてここからディストピアという概念が出てきたのかというと普通の人ならだれでも持っている感覚のせいであるようだ。
「人間不信」の考えらしい。
「それは、人間は放っておけば無秩序状態に陥るのだから、正しい規律や道徳によって管理されなければならない、という人間不信の考え方が前提にあるからに他ならない。 」(ユートピアとディストピア より引用。)
まさに国家に法がある理由だ。
何やってもいいのなら人を殺す人間だっているだろう。という人間がいてはそんな考えがない人からしたら殺されるなどたまったものではない。
「あいつは人殺しだ」これが人間不信の考えになっていくのだろう。人間って怖いね。
肝心のディストピアの定義とはなんなのか。群馬大学の研究原稿にはこう書いてある。
「まず、言葉についての確認である。
「ディストピア」は、他にも反ユートピア、アンチ・ ユートピアなどと呼称される。
前節で追ってきたとおり、ディストピアとは、ユートピア 思想史上に現れた概念である。
大辞泉によれば、ユートピアとは「空想された理想的な社 会。理想郷。理想の国」であり、ディストピアとは「反理想郷。暗黒世界。また、そのような世界を描いた作品」とされている。」(何をもってディストピアとするのか 群馬大学 社会情報学部 情報社会科学科 http://www.law.tohoku.ac.jp/~inuzuka/lec/nitta.pdf )
単純に真逆と捉えていいらしい。めんどくさい。
ユートピアでは自由奔放であったものがディストピアだと自由なように見えていてその中では縛られた環境や閉鎖的な空間によって何かが否定されているようなことらしい。
人間の息苦しさがディストピアとして表れているとでも考えればよいのだろうか。
正直わからない。
どうとも言えない自分の語学力のなさに失望している。
勢いで調べながらブログに書くという愚かな行為も馬鹿である。
肝心の「ディストピア文学」もろくに調べないどうしようもない奴だ。
ディストピア小説自体は1冊だけ読んだことがある。ザミャーチン著の「われら」だ。
正直言って一気にその世界観に引き込まれた。なにせ3年も前に読んだので詳しい感想は忘れてしまった。読んでみてほしい。
それ以外にもディストピア小説はたくさんある。
グーグル先生に聞けばなんでも答えてくれるのである。万能だ。
何冊か感想も乗ったページがあるのでそちらを紹介して終わりにしたいと思います。
話がこんがらがった意味不明なブログになってしまいました。次回くらいはまともなことを書きたいと思ってます。(どうせこうなる)